コンテンツ異常摂取者のカルチャー批評ブログ

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『シャン・チー/テン・リングスの伝説』を観ながらワンピース:ワノ国編のことを考えていた。

※ネタバレを含みます

 

先日『シャン・チー/テンリングスの伝説』を観てきました。

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 シンプルなカット割りを連続して見せるコッテコテのカンフーアクション演出に、シム・リウ本人のエネルギーが溢れ出る格闘シーンは正直興奮を隠せませんでした。ストーリー展開も痛快、キャラクターもそれぞれ魅力的で、ああこれは映画館で観てよかったわ...と。

 だけど、そんなアツい物語が展開される中で僕はずっと『ワンピース:ワノ国編』のことを考えていました(100巻発売おめでとうございます)。

 

 というわけでここからはワンピースワノ国編の話です。安心してください、ちゃんとシャンチーに着地してみせます。

 

最近のワンピわからんという人向けに...

 単刀直入に言えばワノ国編は「世代交代編」と言えます。本編では先の時代からこの海を統べていた四人の皇帝(4皇)のうちの二人ビッグマムとカイドウが敵になります。対してルフィたちは最悪の世代と呼ばれる若手の海賊たちと、赤鞘組と呼ばれるかつてワノ国を統治していた侍たちと手を組み勝負を挑みます。

 

 ここで特徴的なのはカイドウ率いる百獣海賊団が百獣とは名ばかりのかつてこの地上に存在した「巨大古代生物種」たちであるということです(ブラキオサウルスやマンモス、翼竜など)。まさにここでは古代生物VS若手の海賊たちという構図で世代間闘争が描かれており、古代生物を率いるカイドウは乗り越えるべき存在としてモデル設定がなされているのです。

 乗り越えるべき存在である前世代の覇者たちを、実際に乗り越えたとしてルフィたちに待つのは何なのでしょう。それは端的に言ってしまえば「歴史」です。言い換えれば、自ら歴史という長い物語に足を踏み入れることといってもいいでしょう。歴史といえば、ワンピースでは空白の100年と呼ばれる歴史的空白地帯が存在しています。

 ここがワンピースのおもしろいところなのですが、この漫画では主人公と読者が必ずしも同じ終着点をみていないのです。どういうことかと言うと、ルフィは海賊王という称号とあるかもわからない宝のために命をかけて奮闘します。しかし、読者の欲望の対象はルフィが海賊王になるというゴールよりも空白の百年の真実を知ること、つまり歴史にあるのです。ルフィは海賊王になるという目的のために戦いますが、それは歴史の真実に近づくことでもある。なぜなら自らが歴史に組み込まれていくことによってのみ真実の歴史が見えてくるからです。

 つまりワノ国編はルフィにとっては海賊王になるための、読者にとっては空白の百年に近づくための2つの欲望を叶えるための装置として描かれており、その二種類の欲望を同時に満たすために世代間闘争という形式が借り物的に使われているのです。

 

 話をシャンチーに戻すと、シャンチーでは何世紀もの間殺し屋集団を率いて暗躍してきた父親という文字通り「生きる歴史」と戦うことによって、テンリングスの長い歴史の物語に巻き込まれていく主人公が描かれていました。歴史は過去に遡るだけのものではなく、未来にも延びています。シャンチーが踏み入れたテンリングスの歴史はこれから始まるMCUの新たな未来の物語へと接続しており、もうシャンチーはその物語から後戻りする事はできません。

 マルチバース(横のつながり)が重要視されていたMCUでしたがここからは隔絶された歴史をつなげ直す(縦のつながり)がより注目されるのかもしれないなぁと。あまりに壮大な歴史に巻き込まれていくシャンチーとルフィという二人の主人公がどのような未来を夢想し奮闘するのか、いやあ目が離せないです......

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映画『かぐや様は告らせたい〜天才たちの恋愛頭脳戦ファイナル』の原作ファンとしての雑感あるいは実写化における叫びにも似た「応答」について

 

 2021年8月20日に封切りを迎えた映画『かぐや様は告らせたい〜天才たちの恋愛頭脳戦ファイナル』は私の観測範囲では一般視聴者層からはエンタメ作品として熱狂をもって迎えられ、一方で原作ファンからの実写化ゆえの予想通りというか紋切り型の批判を迎えることとなった(大方の批判がこの作品を実際に鑑賞した上でのものであるとは思えないが…)。

 そして私は原作ファンとして個人的にはあまり期待していなかったのだが(ごめんなさい)、この実写化は結果的に長きにわたる実写化映画問題を露わにしていた。もう少し踏み込んで言えば実写化を受け入れることのできない原作ファンという問題をセンセーショナルに浮かび上がらせているように感じた。

 そもそも『かぐや様ファイナル』は同名の漫画作品を劇場実写化した前作の続編にして完結編である。世界有数の財閥四宮家に生まれた才穎四宮かぐやと努力だけで這い上がった秀才白銀御行は貴族の末裔や財閥の令嬢が通う名門秀知院学園を舞台に恋愛頭脳戦を繰り広げる。

 この頭脳戦の勝敗は「告白したほうが負け」という至極単純なもので、告白したら負けの呪縛に囚われた二人は、結ばれるという結果よりもいかに相手に告白させるかという方法への倒錯を起こしてしまい、お互いに恋心を抱きながらも告白にたどり着くことができなくなってしまう。告白という一つの終着点を見据えながらもゴールを迎えず、その手前で恋愛頭脳戦という名目で両/片思いの男女に「日常」を演じさせるというなんともわかりやすい恋愛コメディの王道物語である。

 元を正せば世間に散乱する恋愛物語の多くは2つのパターンに分けることができる。①出会いから恋に落ち恋愛が成就するまでを描くもの②恋愛(交際)関係にある男女の破局までの道程を描くものの二種類だ。わかりやすく言えば①は恋愛の快楽面を描くいわば恋愛の夢に酔うための麻酔系コンテンツであり、②は恋愛の苦悩や葛藤を描きむしろ現実に引き戻そうとする覚醒系コンテンツである。①はその特徴ゆえにアイドルとの親和性が高く、2021年公開作品だけでも『ハニーレモンソーダ』『胸が鳴るのは君のせい』『ライアー×ライアー』など枚挙に暇がない。そして多分に漏れず本作品も主演平野紫耀(King&Prince)、橋本環奈(元Rev.from DVL)とこのカテゴリーに属しているように多くの人々は認識している。

 しかし、原作版かぐや様を見ればこのカテゴライズは必ずしも当てはまらないことに気づかされる。以下ネタバレを含むが、原作版かぐや様では四宮と白銀は文化祭を機に「告白」に成功し交際関係に発展する。つまり①と②を縦断するストーリーへと発展するのだ。原作は日常系学園ラブコメを装い読者を麻酔でいざない②の覚醒コンテンツへと誘導する。日常系学園ラブコメの世界を確信犯的に受け入れて利用し、作品の力によってそのジャンルを乗り越え読者に覚醒を投げかけるという自覚的な制作手法をとった作品である。原作かぐや様は『うる星やつらビューティフル・ドリーマー』での「成長や進歩がない」という日常系ラブコメへの批判を踏まえて作られた終わらない日常のその先を描く物語なのだ。

 

 ここで話を実写版かぐや様に戻そう。結論からすれば実写版かぐや様は”エンタメ実写映画としての使命を果たしながら、原作版かぐや様の問いかけにも応答しようとする、その結果として2つの命題の間でコンフリクトを起こしてしまっている”映画であったと言えるだろう。どういうことだろうか。

 実写版かぐや様が抱える2つの命題とは言うまでもなく①エンタメ作品として、恋愛頭脳戦を繰り広げる日常を繰り返すこと②原作のかぐや様が取り組んでいた投げかけに応答「日常」から脱却することである。そして多くの観客は①だけで捉えて、その下に②が隠されているという2層構造に気づいていない。

①については鑑賞してもらえばわかるので手短にまとめるが、本作では体育祭と文化祭という学園ラブコメ定番の2大エピソードを扱い、なおかつその後の映画オリジナルエピソードまでを詰め込んだ欲張りセットを作るために終始かなり早足だ。しかし、これはただ詰め込んだだけではなく体育祭から文化祭までのエピソードが、文化祭キャンプファイヤーでの「白銀の一世一代の勝負」を導くための伏線として機能している。

 全てのエピソードに十分な時間を確保できているとは言い切れないような乱立するエピソード群を伏線によってギリギリ紐付けられたストーリーとも言える。伏線を回収し、すでに満身創痍の物語は舞台をアメリカに移し映画オリジナルエピソードへと移行する。原作では文化祭で交際成立という一つの転換点を迎える物語はそのターニングポイントを迎えることなくアメリカ編へと進んでいく。つまり恋愛頭脳戦という名の終わらない日常を継続する方向に物語の舵が取られるのだ。

 ここまで書くと「いや、どこに②が書かれてるんだよ」「なにも日常から脱却していないじゃないか」という反論が飛んでくるだろうが、これに関しては、書かれていない。と答えるしかない。”書かれていないが応答している”、ということだ。

 先述したように、この作品は後半に迫るオリジナルエピソードのために時間制限を気にしつつ物語を構成する上で必要最低限の要素(伏線)だけを詰め込まななければならないはずだった。しかし、ただ一つだけ回収されることのなかった伏線がある。それが「ルーティン」の伏線である。

 四宮家のメイド早坂愛は白銀との恋愛頭脳戦において主人の戦いを有利に運ぶため「ルーティン」をつくり平常心を保てるようになることを四宮に提案する。四宮は右手の甲を左頬に当てるというルーティンを確立し白銀との恋愛頭脳戦に望むことを決意する。

 しかし、このルーティンは物語のヤマ場である文化祭キャンプファイヤーはおろかアメリカ編でも一切登場しない。言い換えれば限られた時間を割き、わざわざ伏線を登場させたのにそれをあえて回収していないのだ。さらに言えば回収しないことによってこの伏線はむしろ隠れて機能する。つまりこれは「ルーティン」=「繰り返す日常」のメタファーであり、このルーティンをあえてしないことによって四宮かぐやの決意が暗に表現されているのだ。四宮は終わらない恋愛頭脳戦を終わらせるためルーティン(日常)を捨てる。そしてこの四宮かぐやの心象の変化こそが原作版かぐや様の日常からの脱却というテーマへの応答であると言えるだろう。

 

 表面的に描かれていることだけを見ればこの作品は単なる学園日常系ラブコメであり、その役割を受けたアイドル(元アイドル)のキャストたちが演じる純度の高いエンターテインメント映画であると言える。そしてなによりほとんどすべての観客たちはそのような作品を期待し、原作のファンたちはそのような描き方に失望する。だからこそ原作のファンだからこそ、このような実写化に期待せずそれどころか批判に傾いていく。

 しかし果たしてそれが本当に正しいことだろうか。私たち漫画・アニメファンは今まで「どうせアニメって…」「読んでないけどこの漫画って…」という非視聴者の心無い意見の暴力に常にさらされてきた。それなのに、私たちオタクがこの作品を見ることなく実写化を批判するという同じ暴力を繰り返すことがどうしてできるだろうか。何を言うにも鑑賞しなければならない、それを一番知っているのは私たちオタクだったのではないだろうか。

 この作品は紛れもなく原作版かぐや様からの投げかけに、エンタメとの狭間でボロボロになりながらも「応答」してみせた。それならば今度は私たちがこの作品の声に耳を傾け、応答することが必要なのではないだろうか。

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